WASABIの女になりたい

関ジャニ∞の大倉くんとなにわ男子の高橋恭平くんとLilかんさいが大好き。 ジャニーズのこととか趣味のこととかを書きます

関ジャニ∞と私の思い出

 

母親がキムタクのファン、中学生の時に仁亀のごくせんが流行っていた世代で中学生のころmyojoを買ったりはしてたけど、高校時代はお笑い芸人、スポーツ選手に夢中でいわゆるジャニオタの世界に足を踏み入れたのは大学生になってからだった。

地方都市の学生だったので先輩や友達の家に集まって、嵐や関ジャニ∞のDVDを何回も何回も見ていた。ラジオを聞いてバラエティ番組(当時は仕分けの全盛期だった)をみて、ゆるい茶の間オタクを2年ほど続けて初めて現場に行くことになったのが2013年のJUKE BOXツアー。友達が重複したチケットを譲ってくれての初参戦となった。

当時から大倉くんが好きだったもののまるちゃんもかっこよくってどっちのうちわを待とうかな〜なんて考えながら言った初ライブだったけど、ライブ中ずっと大倉くんのことしか見えてなかったと思う。私は大倉担だ!と自我が芽生えたのはその時だった。その日一緒に入った友達も関ジャニ∞のライブに行くのは初めてだったんだけど、帰ってきた次の日に集合して、2人で一緒に初めて振り込み用紙をもらってきて大学の近くの郵便局でFCに入会するために入金しに行った。

そしてツイッターでオタク用アカウントを作成し、家でレポを漁ったり雑誌や円盤を買い集める日々が始まる。ちょうどDMATの露出がはじまる時期だったから大倉くんが載っている雑誌がたくさんでていた。オリスタの表紙を飾っていたのが今でも懐かしい…。

レポを読むうちにどうしてももう一回ライブに行きたいという気持ちが膨らんでどうしようもなくなりチケットを探しまくった。大学生で時間だけはあったのでチケツイ以外にもチケット余らせてそうなツイートがないかひたすら検索し、なんとオーラスのチケットを譲ってもらえることとなった。1人で電車に乗って遠出をしたのはこの時が生まれて初めてだった。オーラスはダブルアンコでキングオブ男が初披露されてすばりょのつっぱって!に京セラドームが揺れていたことが思い出深い。こうして初めての関ジャニ∞のライブ、初めてのFC入会、初めての1人遠征が終わった。

 

大倉くんの初主演ドラマがあったのもこのすぐあとだった。自分の進路と重なるところもあったこともあって毎話みるのがかなり辛かった。撮影スケジュールもかなりタイトなようで当日の朝まで撮影しているみたいだった。今思えばツイッターもインスタもそこまで流行ってない時代でこの情報どこで手に入れたんだろうか?テレビ?撮影がきつかったのかこの頃の大倉くんはかなりガリガリになってて(たしか60kg台だった)ご飯たくさん食べていっぱい寝れますように…と祈っていた覚えがある。

 

DMATが終わったら次はクローバーの撮影が始まった。大倉くんは初めてのドSな上司の役に悩んでいて髭を生やしたりしていた。かなり好きなビジュアルだった。今思うと決して授業的に暇ではなかったはずなのに無理やり暇を作っていた私はもちろんエキストラに応募した。結果的に3日間ほど撮影に参加させてもらった。オールナイトロケは普通に眠かったし疲れた。浜松での撮影はお金も時間もなくて夜中に車で向かったし、オールナイトロケは2日連続だったので昼はネットカフェで寝た。なかなか体力勝負の初めてのエキストラ体験だった。

 

このエキストラに参加している間に知り合ったデビュー時からの大倉担の大先輩から撮影の待ち時間に昔の話をたくさん聞かせてもらったりこの頃の大倉くんが好きなんだよねと昔の写真をたくさん見せてもらった。この頃はど新規だったこともあって8人時代からのファンの人や47を現役で見てきたファンの人に対して勝手に気後れしていた。ど新規なのにイキってるっぽいかなと思って関ジャニ∞のことをエイトと呼ぶことができないめんどくさいオタクだった。

 

その後の夏にあった十祭もチケットはご用意されなかったけどインスタで繋がったお友達が譲ってくれて初日の味スタに行った。お金がなかったから車で行った。友達を迎えに行く時に朝コンビニで大倉くんが載っているメンズノンノを買ったことを覚えている。当時はファッション誌にアイドルが載ることは多くなかったしかっこよかったし本当にうれしかった。

十祭はめちゃめちゃ天気が悪かったけどスタンドのほぼ最後列で屋根があって助かった。JBのオーラスに引き続き、きまずいのkicyuで次は味スタが揺れた。亮ちゃんの爆照れ具合がすごくて初日に入れて本当に良かったと思った。

終わってそのまま帰路に着いたけどどう考えても日帰り車で東京遠征は無理だった。ちょっと休憩しようかと言って入ったサービスエリアでちょっとだけ寝ようかと言って友達と2人でシートを倒して1時間くらい寝るつもりだったけど、目が覚めたら普通に朝だった。今では到底できない車中泊遠征もこれが人生最初で最後だった。

 

2014-2015年頃の関ジャニ∞は仕事がどんどん増えているように見えて、冠番組が新しくふたつもできてそれもメンバーの良さを引き出してくれるバラエティと音楽に特化した番組と内容も充実していたし個人仕事もグループ仕事も盛りだくさんだった。

ツアーも年に2回はしていてもちろん私は多ステしていた。リサイタルが発表された時には、なんでこんなに人気あるのにアリーナツアーやねん、チケットとれるかい!と怒っていた気もする。地元に近い福井に来てくれた時バクステから2列目のアリーナ席だったんだけど、バクステから客席までの距離が近すぎて亮ちゃんが若干ひいていたような気がした。近くに行きます!というのがテーマなのがリサイタルだった気がするのにと思いながら、こちらとしても近すぎてちょっと恥ずかしくて顔を直視できなかった(勿体無い)。

 

ジャニ勉の番協にもいった。もちろん番組協力に行くのも人生初めてのことだった。テレビでずっと見ていたセットが目の前にあって、こんなに近くで見れるんだ…!と驚いたし収録があまりにスムーズなことにも驚いた。バラエティってもっと編集するのかと思っていたけどジャニ勉に関して言えばほぼほぼテレビで見ているそのままの内容、スピードで収録が終わった。1番端の席だったんだけど、セットの転換中にまるちゃんが端にある階段を登って私の少し下の方まで来ていて近すぎる!近すぎる…!!!とど緊張した。私は音楽番組系の番協には縁がなかったし仕事を始めてからはスケジュール的に厳しいので番協はジャニ勉が人生最初で最後かもしれない。

 

2016年の元気がでるLIVEの年、私は国家試験を控えていたこともあって現場の数を控えていた。

2回だけ行く予定だったのが、2回目に譲ってもらって入る予定だった名古屋で開演20分前にドタキャンをくらい、ただ名古屋に来て帰るだけなのも悔しいのでとりあえずあつた蓬莱軒でひつまぶしの1番高いやつを食べて帰った。

オーラスの日は学校で勉強をしていて、まだレポが流れてくる時間じゃないのに動くTLを見て血の気が引いた。腸閉塞ってなんだっけ?と調べたし大倉くんの健康を祈った。元気が出るライブはかなり好きなライブだったのに(特に夏の恋人のビジュアルが大好きだった)、ライブには1回しか行けなかった上に円盤には自担がいない回が収録されていて、こんなもん買うか!!!!!!!とブチギレていた。でもメイキングに映っている姿だけでも見たくて結局買った。本編も少し再生してみたけどやっぱり見れなかった。ドタキャンも自担がいない円盤もこれが初めてだった。(もうないことを願うばかり)

 

2016年冬、札幌にて初めての誕生日公演の予定だったが雪で飛行機が欠航になった。遅延するけどもしかしたら飛ぶかも………そう思って空港で3時間ほど待ち続けていたけど結局飛行機は飛ばなかった。せっかくの誕生日だからせめて何かしようと言ってその足で疾風ロンドを見に行った。悲しい誕生日になった。

 

2017年、オタクの体感でしかないけど関ジャニ∞は勢いに乗りまくっていたと思う。なによりオタクをしていてめちゃめちゃ楽しかったしもう敵はいないと思っていた。JAMコンの2部制も関ジャニ∞のバンド好きな私にはかなりハマった。

私は行けなかったけど夏にはメトロックが大成功していたし、メトロックに行けなかったオタクのことも拾い上げてくれるようなライブだった。

メトロックの映像は奇跡の人の特典として入っていた。奇跡の人は解禁された時にいまどきこんな亭主関白の歌詞ありえんだろ!と若干燃えていた。私は結婚式の時に奇跡の人もBGMとして使ったが良さげな歌詞の部分から再生してもらうようにお願いした。

 

2018年4月、突然の報告だった。ちょうど結婚して職場が変わって、私生活の変化も大きかった時期だったことも重なり、その頃人生の中心だった関ジャニ∞が崩れてしまって私はかなり体調を崩した。2、3日は仕事中も涙が流れてしまったこともあるしずっと続くと思ってたものが永遠ではなくなってしまったことがショックだった。そんな時も大倉くんの言葉は何度も私を救ってくれたと思う。会見での言葉も、ラジオでどうしても話させてほしくてと伝えてくれたことも。最後のテレビ出演はたまたま泊まっていたホテルで1人で見て泣きながらハーゲンダッツを食べた。笑って送り出していた大倉くんとまるちゃんが心強かった。

 

GR8ESTの初日は行く選択肢しかなかった。今回は夏だから欠航にはなるまいと思っていたけど悪天候で飛行機は遅延していた。タクシーを駆使して開演10分ちょっと前にドーム到着。グッズを買う暇はもちろんなくてダッシュして席に着いたのが5分前。初めてのスタンド最前だった。ペンラも買えずうちわと拳で参加、たくさん泣いたライブだった。ダブルアンコでフロートに乗って近づいてきた大倉くんがうちわの文字をよんでありがとうー!と手を振ってくれた。大倉くんからもらった始めてのファンサだった。

その日は友達と適当に入った居酒屋で飲みながら関ジャニ∞って本当に最高で…と話して2人で狸小路を歩いてホテルに帰った。楽しい夜だった。

 

GR8ESTも何回も入ったけど東京ドームに行った時、帰りの夜行バスまで時間あるな〜と思って呑気にコンビニでビールを買ってたら時間を勘違いしていたらしく夜行バスを乗り過ごすという大失態を犯した。こんな初めては別に経験したくはなかった。

台湾にも飛んだ。台湾に行くのもライブのために海外遠征するのも初めてだった。

 

2019年ごろからは大倉くんがプロデュースしていた影響もあって関ジュを見出したり他のジュニアの現場にも行くようになる。この頃はプロデュースについて色々言われてたことにずっとムカついていたと思う。同時に、大倉担としての自分に自信がなくなってきた時期でもあった。担降りブログとまではいかないが担当が増えそうというブログは書いたし担当制度について悩んだブログをいくつも書いては下書きのままほったらかしにしていた。大倉くんのことは好きだけど担当を名乗るようなオタクではなくなってしまったこと、けど担降りを宣言する度胸がないこと、好きの形を人と比べてしまう自分のことがちょっと嫌いになった。

十五祭ではツアーの前に一曲目は∞ o’clockとかどう?とか言ってたら本当にそうなっちゃって大倉くんの思考が私の中に…!!と嬉しくなった(ヤバオタク)大倉くんのことを好きになってよかったなあと思えたライブだった。

 

5人になった後、行く予定だった47ツアーはコロナで中止になってしまった。その後の5人になってからの初めてのアリーナツアーは出産直後になってしまったのでさすがに行けなかった。5人の関ジャニ∞をなかなか自分の目で見れないまま時間がすぎてしまって、楽曲の方向性とかいろんなことでもやもやしていた中でようやく5人の関ジャニ∞を見れたのは18祭だった。スタジアム、ドーム、どっちもとっても楽しくて5人の関ジャニ∞もいいやんとようやく思えた気がした、けど実際のところは大倉くんかっこいい(泣)というオタク3日目の状態に戻っていたような気もする。

 

 

好きになったばかりの頃、大学生だった私は就職して結婚して子供も生まれた。環境がかわって関ジャニ∞が人生!現場命!のオタクではなくなってしまってあんなに悩んでいた担当制度のことも気にならなくなってしまった。寂しい気もするけどこれが大人になるってことなのかもしれない。

そんな自分のこともライブに行けばいつでも優しく楽しく賑やかに受け入れてくれる関ジャニ∞の空気が大好きで、これからもずっとそうであってほしいなと思っている。そのために自分にできることはしていきたいとも。

私にたくさんの初めてを教えてくれた関ジャニ∞のみんながこれからもずっと笑っていられますように、5人で考えてくれた新しい名前がたくさんの人に愛されますように🌼

これからも応援しています。